デジタル資産の相続とファミリーガバナンスの未来

デジタル資産の相続とファミリーガバナンスの未来

デジタル資産の重要性が高まる中、一族の資産管理体制にも変化が求められています。特に暗号資産、ドメイン名、SNSアカウント、オンライン銀行口座などの「デジタル遺産」をどのように安全かつ確実に次世代へ承継するかは、重要な法的課題です。スイス法の枠組みの下では、デジタル資産の相続について、包括承継をはじめとする基本原則と実務的な対応策が存在します。

一族のデジタル資産管理方針を家族憲章に組み込み、秘密鍵の管理に伴う法的・技術的課題に備えることは、資産の散逸を防ぎ、次世代への円滑な承継を実現するための鍵となります。本記事では、日本とスイスの法律の違いを踏まえ、デジタル遺産を安全に承継するための包括的な戦略を考察します。

スイス法務におけるデジタル資産の法的位置づけと相続の基本原則

スイス法務における相続の基本原則は、スイス民法典によって厳格に規定されています。スイス民法典第560条は、被相続人の死亡と同時に、相続人が遺産全体を法律上当然に取得するという「包括承継の原則」を定めています。

参考:fedlex(スイス連邦政府法令データベース)|SR 210 スイス民法典(ZGB)

この規定により、被相続人の財産的権利や義務はすべて相続人に引き継がれることになります。日本の民法第896条においても同様に包括承継の原則が採用されているため、相続人が被相続人の財産に属した一切の権利義務を承継するという基本的な法理は、日本とスイスでほぼ同じであり、実務上の混乱は生じません。

しかし、デジタル資産という無体物に対してこの原則をどのように適用するかという点において、留意すべき重要な違いと実務上の課題が生じます。スイスの法律には現在、デジタル遺産のみを対象とした特別法は存在しません。そのため、デジタル資産は既存の相続法(ZGB)の枠組みの中で扱われます。パソコンやスマートフォン、USBメモリなどの物理的なデバイスにローカル保存されたデータについては、デバイス自体の所有権が相続人に移転するため、それに付随してデータへのアクセス権も自動的に承継されると考えられています。

一方で、クラウドストレージ上のデータやオンラインサービスのアカウントについては、相続法、人格権の保護、そして著作権の要素が複雑に交錯します。スイス法の下では、財産的な価値を持つデータは包括承継の対象となりますが、個人的な電子メールやSNSのメッセージなど、人格権に強く結びついたデータについては、被相続人の死とともに権利が消滅し、相続の対象とはならないとする見解が有力です。日本ではデジタル遺産の法的位置づけや人格権の死後存続について議論が続いている一方、スイスでは暗号資産をはじめとする価値移転可能なデジタルデータについて、分散型台帳技術(DLT)に関する法整備が行われてきました。

暗号資産承継を保護する分散型台帳技術に関するスイスの最新法令

暗号資産承継を保護する分散型台帳技術に関するスイスの最新法令

スイスでは、分散型台帳技術(DLT)に関する一連の法改正(いわゆるDLT法、Bundesgesetz zur Anpassung des Bundesrechts an Entwicklungen der Technik verteilter elektronischer Register)が施行されました。中核となる債務法上の規定は2021年2月1日に、債務執行・破産法の改正等を含む残りの部分は2021年8月1日に施行され、全面施行に至りました。この法律は単一の新しい特別法を作るのではなく、スイス債務法やスイス連邦債務執行破産法などの既存の法律を直接改正するという形式をとっています。この抜本的な法改正により、スイス債務法第973d条に「台帳に基づく価値権」という新たな概念が導入されました。これは伝統的な有価証券そのものではなく、台帳を通じてのみ主張・移転できる権利として定義されます。

参考:fedlex(スイス連邦政府法令データベース)|SR 220 スイス債務法(OR)

これにより、ブロックチェーン上のトークンとして権利を発行し、そのトークンの移転のみによって法的な権利移転を完結させることが可能となりました。この仕組みにより、暗号資産承継の法的確実性が高まっています。

比較項目日本の法律における扱いスイスの法律における扱い
暗号資産の法的性質資金決済法上の「暗号資産」として規制。民法上の「有体物」ではないため所有権の客体となるか争いがある。債務法上の「台帳に基づく価値権(Registerwertrecht)」として明確に定義。台帳に登録された権利の移転を、有価証券に準ずる効力をもって保護。
破産時の取戻権利用者の暗号資産は資金決済法により分別管理が義務づけられ(利用者の金銭は信託が義務づけられる)、第63条の19の2で利用者に優先弁済権が明文で認められる。ただしスイスのような取戻権(Aussonderung)ではなく、優先弁済権の構成をとる。スイス連邦債務執行破産法第242a条により、暗号資産が第三者に個別に割り当てられている場合、または共同体に割り当てられ各人の持分が明確である場合には、取戻し(Herausgabe)が明文で認められる。
デジタル遺産の承継デジタル資産は民法第896条により包括承継の対象となるが、サービスの利用規約による移転制限が実務上の課題となる場合がある。財産的価値を持つデータは包括承継の対象。ただし人格権に属するデータは承継されない。

さらに、スイス連邦債務執行破産法第242a条の導入は、暗号資産をカストディアンに預託している際の承継において重要な意味を持ちます。

参考:fedlex(スイス連邦政府法令データベース)|SR 281.1 連邦債務執行破産法(SchKG)

従来、保管業者が破産した場合に、暗号資産が破産財団から分別・取戻しの対象となるかが論点となっていました。スイスの新しい破産法では、保管業者が顧客の暗号資産をブロックチェーン上で混蔵保管していた場合でも、顧客に個別に割り当てることが可能であれば、破産財団からの取戻しが明確に認められました。この規定(SchKG第242a条)により、規制された金融機関や暗号資産交換業者に暗号資産を預託している場合、事業者の破産時には、当該資産が利用者に個別に帰属している(または共有財産における持分が判別可能である)限り、利用者は破産財団からの取戻しを主張できます。相続時のアクセスについては、相続人が事業者との契約上の地位を承継し、必要書類の提示により手続きを行うことになります。

スイスにおける暗号資産承継の技術的障壁と秘密鍵管理の法的課題

スイスにおける暗号資産承継の技術的障壁と秘密鍵管理の法的課題

デジタル資産相続において最も困難なのは、法的な権利の移転と技術的なアクセス権の確保が必ずしも一致しないという点です。暗号資産の保管方法には大きく分けて、自分自身で秘密鍵を管理する自己保管と、第三者のサービス事業者に預託する委託保管の二種類があります。

スイスにおける規制された事業者に暗号資産を預託している場合、被相続人の死亡により、事業者と被相続人との間の契約関係は相続人に引き継がれます。相続人は、死亡証明書や相続証明書(ZGB第559条のErbbescheinigung)を事業者に提示して相続人資格を証明し、アカウントへのアクセスや資産の移転手続を行うことができます。これは従来の銀行口座の相続手続きと類似しており、スイスの高度な金融規制のもとで保護された確実な方法です。

しかし自己保管を選択している場合、状況は根本的に異なります。ハードウェアウォレットなどに暗号資産を保管し、秘密鍵や復元のためのシードフレーズを被相続人だけが知っている状態で死亡した場合、スイス民法第560条により相続人が法的な所有権を取得したとしても、技術的なアクセス権がなければ資産を引き出すことは物理的に不可能です。ブロックチェーン技術の特性上、管理者が存在しないため、パスワードのリセットや強制的なアクセス権の移転を命じる裁判所の命令があっても、秘密鍵がなければいかなる機関も資産を動かすことはできません。秘密鍵を喪失したために暗号資産にアクセスできなくなる事例は世界的に知られており、相続の場面でも同様のリスクがあります。

この技術的課題を克服するためには、生前の準備が不可欠です。遺言書の中に秘密鍵やシードフレーズを直接書き込むことは、遺言が死亡後に関係人へ開披される(ZGB第557条)性質上、複数の関係者の目に触れうるため、セキュリティの観点から避けるべきです。そのため、遺言書には暗号資産が存在することと、そのアクセス情報が保管されている場所のみを記載し、実際の鍵情報は物理的かつ安全に分離して保管する必要があります。日本の実務でも同様の配慮が必要ですが、スイスにおいては、暗号資産の技術的特性に精通した信頼できる第三者をスイス民法第517条に基づき「遺言執行者」を選任し、技術的なアクセスと資産の分配を委ねる手法が推奨されています。

遺言執行者は、法律に基づいて被相続人の意思を実現する強力な権限を持つため、デジタル遺産の安全な移行において中心的な役割を果たします。

参考:fedlex(スイス連邦政府法令データベース)|SR 210 スイス民法典(ZGB)

スイスにおけるデジタル遺産全般の管理方針と家族憲章への組み込み

暗号資産などの金銭的価値を持つ資産だけでなく、事業創設者や一族の代表者が保有するSNSアカウント、オンラインストレージ、電子メールアカウントなどのデジタル遺産も、現代のファミリーガバナンスにおいて決して無視できない要素です。事業に関連する重要な連絡先や、一族の歴史を示す写真や文書がクラウド上にのみ保存されているケースは珍しくありません。

スイスにおいては、人格権は原則として死亡により終了し、相続の対象にはならないとされています。そのため、遺族であっても故人のプライベートな電子メールやSNSのメッセージに対する閲覧権限が自動的に認められるわけではありません。Apple、Google、Microsoftなどの主要なグローバルIT企業は、ユーザーが死亡した際のアカウントの取り扱いについて独自の規定を設けています。例えばAppleは生前に「レガシー連絡先」を指定できる仕組みを、Googleは一定期間アクセスがない場合に指定した連絡先へデータを移行または自動削除する仕組みを提供しています。一方Microsoftはこうした事前指定の仕組みを設けておらず、死亡後に近親者が死亡証明書等を提示して申請するNext of Kin手続による点で異なります。これらの機能を利用して生前に意思表示を行っておくことは、残された遺族の手続きの負担を軽減し、情報漏洩を防ぐうえで有効な手段となります。

欧州圏で事業を展開する企業や一族にとって、こうしたデジタル資産の管理方針を「家族憲章」に組み込むことは、次世代への円滑な事業承継と一族の結束を維持するために有効です。家族憲章の中で、どのデジタル資産を一族の共有財産として保存し、個人のプライバシーに関わるどのデータを破棄するかという明確なルールを定めておくことで、相続発生時の親族間の紛争や、事業継続に必要な重要データへのアクセス不能といった致命的なリスクを未然に防ぐことができます。

まとめ

デジタル資産の相続は、法的な権利の移転と技術的なアクセス権の確保という二つの側面を同時に解決しなければならない課題です。包括承継の原則を定めたスイスの法律の下では、デジタルデータも財産として相続の対象となりますが、特に暗号資産においては自己保管時の秘密鍵の管理方針が資産へのアクセス可否を左右します。また、最新の法改正による台帳に基づく価値権の導入や、破産法における暗号資産の取戻権の明文化(SchKG第242a条)など、スイスはデジタル資産の保護について先進的かつ明確な法的基盤を整備しています。これらの制度を最大限に活用し、SNSやクラウドデータを含めたデジタル資産全体の方針を家族憲章などのファミリーガバナンスに統合することは、欧州市場でビジネスを安全に展開し、次世代へ確実に資産を引き継ぐ上で欠かせないリスク管理となります。

モノリス法律事務所では、ITおよびデジタル分野の専門知識を活かし、スイスの法律事務所Araucariaとの強固な提携を通じて、欧州圏でのビジネス展開に必要となる複雑な法務手続きを包括的にサポートしております。スイス特有の先進的な法令に基づいたデジタル資産の承継計画の策定から、一族の理念を反映した家族憲章の作成、現地の遺言執行者の選任、さらには技術的な資産保全の戦略的アドバイスに至るまで、日本とスイスの法務を一体的にカバーする専門的なリーガルサービスを提供し、皆様の重要な事業と資産を確実な形で未来へと引き継ぐお手伝いをいたします。

監修

河瀬 季

Toki Kawase

IT企業経営の経験を持つエンジニア出身の弁護士。東大院修了後、モノリス法律事務所を開設。上場企業からスタートアップまで顧問弁護士やCLOとして経営を支援する。特にスイス法務に精通し、専門チームを率いて現地法人設立から労務、知財戦略分野で日本企業のスイス進出を多角的にサポートしている。

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