スイスの知的財産権保護入門:IGEへの出願と欧州他国との違い

スイスの知的財産権保護入門:IGEへの出願と欧州他国との違い

欧州市場でのビジネスを成功させるには、各国の法体系に即した知的財産戦略が不可欠です。多くの日本企業は欧州全域を一括してカバーする手段として、欧州連合商標の取得を優先します。しかしながら、スイスは欧州大陸の地理的中心に位置し、極めて重要な経済拠点でありながらも欧州連合には加盟していないため、欧州連合商標の法的効力はスイス国内には一切及びません。

スイスにおいて自社の貴重なブランドや高度な技術を法的に保護し、事業の安全性を確実に担保するためには、スイス連邦知的財産研究所への直接出願や、マドリッド協定議定書を活用した国際登録制度におけるスイスの個別指定など、完全に独立した権利取得の手続きが必須となります。スイスの知財制度は、日本の法律や他の欧州諸国の制度とは異なる独自の歴史的背景と運用方針を有しており、特有のリスクと事業上の機会を内包しています。

本記事では、IGE商標およびスイス特許の取得に関して、最新の法令情報、手続きの詳細、および重要判例を解説し、スイス市場における知的財産権保護の実務的アプローチを示します。

欧州市場におけるスイス知財制度の独自性と重要性

スイス連邦は欧州自由貿易連合の加盟国として欧州諸国と緊密な経済的結びつきを持ちながらも、独自の政治的独立性を維持するために欧州連合には加盟していません。この独自性は、知的財産権を規律する法体系にも直接的な影響を与えています。欧州連合商標や共同体意匠といった制度は、一度の出願で欧州連合加盟国全域を保護する強力な権利ですが、これらの効力はスイスの国境を越えることはありません。したがって、スイス市場での製品の販売、サービスの提供、あるいは現地の代理店を通じた戦略的な事業展開を計画する企業は、欧州連合向けの知財戦略とは完全に切り離された、スイス独自の権利取得プロセスを確実に踏む必要があります。このリスクを見落とした場合、欧州全域で確立したはずのブランドや技術が、購買力の高いスイス市場では無防備な状態に置かれ、第三者による模倣や商標の先取りを招きかねません。

スイスにおける知的財産権の付与と管理を統括する唯一の管轄官庁は、首都ベルンに本部を置くスイス連邦知的財産研究所です。この政府機関は、特許、商標、意匠、地理的表示、および著作権に関する連邦行政の根幹を担う組織であり、1888年に設立された歴史ある機関です。かつてアルベルト・アインシュタインが特許審査官として勤務し、在職中の1905年に現代物理学の基礎となる論文を発表したことでも知られています。IGEは1996年以降、連邦政府から独立した公法上の機関として、知的財産権の付与手続き、国際的な政策立案、発展途上国への知財支援など広範な権限を担っています。日本企業がスイスで法的保護を確立するプロセスは、全てこの機関を中心として展開されるため、スイスの知財制度の特殊性を深く理解することは、欧州ビジネス全体の成否を分ける重要な要因となります。

参考:IGE(スイス連邦知的財産研究所)|公式ウェブサイト

スイス連邦知的財産研究所への商標出願と日本の法律との決定的な違い

スイス連邦知的財産研究所への商標出願と日本の法律との決定的な違い

スイスにおける商標の法的保護は「商標および出所表示の保護に関する連邦法」によって厳密に規律されています。同法第1条において、商標とはある企業の製品またはサービスを他の企業のそれと明確に区別することができる標章であると定義されており、単語、文字、数字、図形、立体形状といった視覚的な要素だけでなく、これらを組み合わせたものや、特定の音階の連続からなる音声商標であっても、他者の製品と区別する識別力を有している限り、原則として商標としての法的な保護対象として認められます。この定義自体は日本の商標法と大きく矛盾しませんが、審査プロセスや保護範囲の決定メカニズムにおいて、両国の制度には重要な違いがあります。

日本企業がスイス市場でのブランド戦略を構築する際に特に注意すべきは、IGE商標の審査範囲が限定的であることと、拒絶理由の取り扱いに関する独自の法制です。日本の特許庁においては、出願された商標がそれ自体として識別力を有しているかという絶対的な要件が審査されると同時に、他人が既に登録している先行商標と同一または類似していないかという相対的な要件についても、審査官が職権で厳格な調査と審査を行います。先行する類似商標が発見された場合、日本の特許庁は職権で拒絶査定を下し、消費者の混同を未然に防ぎます。

しかしながら、スイスの商標制度ではこの審査のアプローチが根本的に異なります。スイス連邦知的財産研究所は、出願された商標に対して、識別力の完全な欠如、商品の品質や特徴を直接的に表す記述的標章、公序良俗に反する標章、あるいはパブリックドメインに属する一般的な記号など、「絶対的拒絶理由」に該当するかどうかのみを職権で審査します。一方で、出願された商標が他者の先行登録商標と抵触する可能性があるか否かという「相対的拒絶理由」については、審査機関は職権による審査や自発的な拒絶を一切行いません。つまり、著名な商標と同一の商標が出願された場合でも、絶対的要件さえ満たしていれば登録簿に公開され、手続きがそのまま進行するという点が、日本との根本的な違いです。

このような制度設計の下では、先行する商標権者の権利保護は、権利者自身からの自発的な「異議申立て」というアクションに完全に依存することになります。スイスの商標法において、商標登録に対する異議申立ての期間は、問題となる商標がスイスの登録簿等で公式に公開された日から「3ヶ月以内」と厳格に定められています。日本の商標法における登録異議の申立て期間が商標掲載公報の発行の日から2ヶ月以内であることと比較すると、期間自体は1ヶ月長く設定されていますが、その背景にある制度的な重みは全く異なります。日本では特許庁が防御壁となっているのに対し、スイスでは先行権利者自身が登録簿を継続的に監視し、抵触する出願を発見した際には自ら異議を申し立てなければ、類似商標の登録を阻止できません。

したがって、スイスにおいてブランド価値を維持し、フリーライドや模倣品の脅威から事業を防衛するためには、単に商標を出願して登録を得るだけでは不十分です。登録後もIGEの公開情報をウォッチングサービスで継続監視し、3ヶ月の法定期間内に異議申立てを実行できる体制を整えておくことが実務上重要です。

審査および手続きの比較項目スイス連邦知的財産研究所による運用日本国特許庁による運用
絶対的拒絶理由の審査審査官が職権で厳格に審査する(識別力、公序良俗等)審査官が職権で審査する
相対的拒絶理由の審査審査官は職権では一切審査しない(先行商標との類否調査なし)審査官が職権で厳密に審査する
先行商標の排除メカニズム先行権利者からの自発的な異議申立て手続に完全に依存する審査官が引例を提示し職権で拒絶理由を通知する
異議申立ての法定期間対象商標の公開日から3ヶ月以内商標掲載公報の発行の日から2ヶ月以内

参考:fedlex(スイス連邦政府法令データベース)|SR 232.11 商標および出所表示の保護に関する連邦法

マドリッド協定議定書を活用した国際登録制度におけるスイスの指定と戦略

スイスにおけるIGE商標の取得を目指す場合、現地代理人を通じた直接出願のほかに、マドリッド協定議定書を通じた国際登録制度でスイスを指定するルートも選択肢となります。この国際登録制度は、日本を含む複数の国々で同時に商標保護を求める企業にとって多大なメリットをもたらす一方で、スイス特有の法制度と結びついた場合に顕在化する重大なデメリットやリスクも併せ持っています。スイス市場に向けた最適な出願戦略を立案するためには、これらのメリットとデメリットを多角的に分析し、自社のビジネスモデルに最も適した選択を行う必要があります。

マドリッド協定議定書を利用する最大のメリットは、出願手続きの一元化とコストの削減です。日本の特許庁を本国官庁として一つの言語で単一の国際出願書類を提出し、一度の料金支払いを行うだけで、スイスを含む多数の加盟国に対して同時に出願手続きを完了させることができます。各国ごとに現地の法律事務所を選任し、それぞれの国の言語で個別に書類を作成し、個別の通貨で出願手数料を支払う必要がなくなるため、初期段階での事務的な負担と法務費用を大幅に圧縮することが可能となります。また、登録後の商標権更新や権利者の名称・住所変更といった管理手続きも、WIPO国際登録簿上で一括処理できます。

一方で、マドリッド協定議定書の利用には、制度の本質に起因するいくつかの重大なデメリットとリスクが伴います。その代表的なものが「セントラルアタック」と呼ばれるリスクです。国際登録は出願から5年間は本国である日本での基礎出願または基礎登録に完全に依存する仕組みとなっているため、万が一日本の特許庁での基礎出願が拒絶されたり、登録後に無効審判等によって日本の商標権が取り消されたりした場合、スイスを含む全ての指定国における国際登録の効力も連鎖的に消滅してしまいます。

さらに、スイスを指定国とした国際登録出願において特筆すべき最大のデメリットは、スイス特有の相対的拒絶理由に関する審査制度との相性の悪さにあります。国際出願が世界知的所有権機関を通じてスイス連邦知的財産研究所に通知された後、スイス側では国内出願と全く同様に、絶対的拒絶理由に関する審査のみが行われます。他者の先行商標と抵触していないかという相対的拒絶理由は審査されないまま、問題がなければスイス国内で保護が認められ、公開されます。ここでも、国内出願と同様に、先行権利者から異議申立てを受けるリスクが常につきまといます。国際出願は手続きが簡便な反面、各国の先行商標調査が不十分になりやすい点には注意が必要です。現地の競合状況を十分に把握せずにスイスを指定し、公開後に現地の強力な権利者から予期せぬ異議申立てや権利侵害の警告を受けた場合、結局はスイス現地の専門家を選任して高額な費用と時間をかけて係争に対応しなければならなくなり、当初のコスト削減のメリットが失われます。

したがって、スイスの知財制度の下でブランド戦略を展開するにあたっては、マドリッド協定議定書を通じた一括指定に盲目的に頼るのではなく、出願前の段階でスイス国内における詳細な商標調査を実施することが極めて重要です。自社の主要事業に関わる最重要ブランドについては、セントラルアタックのリスクを完全に遮断し、現地の商標慣行に精通した専門家のサポートを得ながらスイス連邦知的財産研究所への直接出願を選択することが、長期的な法的安定性を確保する上でより確実なアプローチとなる場合があります。国際登録と直接出願の利害得失を比較考量し、事業の重要度に応じた最適なハイブリッド戦略を構築することが求められます。

スイス商標法の実務に多大な影響を与えた連邦最高裁判所の重要判例

スイス商標法の実務に多大な影響を与えた連邦最高裁判所の重要判例

スイスの商標実務を深く理解する上で、条文の字義通りの解釈だけでは不十分であり、スイスの最高司法機関が法律をどのように解釈し、実際のビジネス上の紛争に適用しているかを知ることが不可欠です。スイス連邦最高裁判所は、商標の識別力の認定基準や、特許制度と商標制度の境界線といった極めて複雑で高度な論点において、欧州全体の知財実務にも波及するような重要な判断を下しています。以下では、スイス市場のブランド保護と競争環境に影響を与えた二つの判決を取り上げ、実務上の示唆を整理します。

リンツ・ゴールドバニー事件における立体商標の識別力と混同の判断基準

一つ目の重要判例は、立体商標の長年にわたる使用を通じた識別力の獲得と、食品パッケージにおける混同のおそれについて判断を下した、スイスの著名なチョコレートメーカーであるリンツの事案です。この裁判は、スイス連邦最高裁判所において2022年8月30日に判決が下され、当事者はChocoladefabriken Lindt & Sprungli AG(リンツ)とLidl Schweiz AG(リドル)の間で争われました。

事件の背景として、ディスカウントスーパーマーケットチェーンであるリドルは、スイス国内の店舗において、リンツの代名詞とも言える主力商品に酷似したウサギ型のチョコレート製品を販売していました。リンツは、IGEに登録したウサギ型立体商標(金色の包装紙・首に赤いリボンと小さな鈴を巻いた座り姿の形状)が侵害されたとして、リドルに対し販売差し止めと在庫の破棄を求めて提訴しました。この争いは第一審であるアールガウ州商事裁判所から始まり、最終的にスイス連邦最高裁判所へと持ち込まれました。

スイス連邦最高裁判所は、商標の有効性を判断するにあたり、リンツによって提出された広範かつ精緻な市場調査(デモスコピック調査)の結果を極めて高く評価しました。この市場調査は、スイスの一般消費者が該当するウサギの形状を見たときに、特定のブランドを連想するかどうかを統計的に実証するものでした。最高裁判所は、リンツのウサギ型形状が、包装紙の色彩の有無にかかわらず、長年にわたる市場での使用を通じて出所表示機能を獲得し、いわゆる「使用による識別力」を取得していると認定しました。

さらにこの判決において実務上最も特筆すべき点は、「混同の生じるおそれ」を判断する際の裁判所の極めて現実的な見解です。リドル側は、自社製品のパッケージには「Favorina」という明確な自社ブランドのラベルが貼付されており、消費者がリンツの製品と混同することはないと強硬に主張していました。しかし最高裁判所は、チョコレートのような日用消費財において、平均的な消費者が購入時にラベルの文字を読んで出所を確認することは通常期待できないと判断しました。消費者は、製品の全体的な形状や外観の印象、すなわち金色の包装や首元のリボンといった視覚的なメインフィーチャーに無意識に依存して商品を選択していると結論づけたのです。その結果、裁判所は「Favorina」という文字ラベルが存在したとしても、立体商標としての視覚的な混同を回避するには全く不十分であるとしてリドルの主張を退け、リンツの立体商標に極めて広範な保護範囲を認めました。最終的に最高裁判所は、リドルに対する類似品の製造・販売の全面的な差し止めと、既に各店舗に納品されている全ての在庫の破棄を命じるという、権利者にとって非常に強力な判決を下しました。

この判決は、長年の使用で市場に定着した立体商標が、後発競合によるラベル追加などの表面的な差別化を超えて、強力な法的保護を受け得ることを示した事例です。独自の商品形状や特徴的なパッケージングを展開する企業にとって、スイス市場でのブランド視覚資産が法的に保護されることを確認できる重要な指針です。

参考:BGer(スイス連邦最高裁判所)|判決 4A_587/2021(2022.08.30 リンツ・ゴールドバニー事件)

ネスプレッソ・カプセル事件における技術的必然性の除外と自由競争の保護

二つ目の重要判例は、立体商標における「技術的必然性」の要件を厳格に解釈し、特許制度と商標制度の境界線を明確にした事案です。この裁判は、スイス連邦最高裁判所において2021年9月7日に判決が下され、上告人はSociété des Produits Nestlé S.A.とNestlé Nespresso SAの2社、被上告人は複数の個人(匿名)でした(事件の背景にはEthical Coffee Company SA等の互換カプセルメーカーとの紛争が関係しています)。

事件の発端は、ネスレが世界的に展開する大ヒット商品であるカプセル式コーヒー抽出システム「ネスプレッソ」にあります。ネスレは、このシステムで使用される専用のコーヒーカプセルの独特の円錐台の立体形状について、スイスにおいて立体商標(商標登録番号:486889)を取得し、長年にわたり独占的な市場を形成していました。その後、特許期間の満了を契機として、Ethical Coffee社などの複数の競合他社が、ネスプレッソの抽出マシンに適合する安価な互換カプセルを製造し、市場に参入してきました。ネスレは自社の立体商標権が侵害されたとして互換カプセルの販売差し止めを求めて提訴し、これに対抗してEthical Coffee社側は、ネスレが保有するカプセルの立体商標自体が法的に無効であるとして反訴を提起しました。途中でEthical Coffee社が破産するなどの経緯を経ながら、2011年頃の民事訴訟提起から約10年にわたって争われました。

この訴訟における最大の法的争点は、スイス商標法第2条第1項(b)(MSchG Art. 2 lit. b)の解釈でした。同規定は、「事物の本質を構成する形状、または技術的に必要な形状」は、商標登録の対象から絶対的に除外されると定めています。スイス連邦最高裁判所は、この規定の根底には「技術的な解決策に対する永続的な独占権を、商標法という本来出所を表示するための制度を通じて企業に認めるべきではない」という、自由競争保護の要請があることを確認しました。技術的な発明の保護は、本来であれば権利期間が厳格に制限された特許法によって担われるべきものであり、特許期間が満了した技術は速やかにパブリックドメインに置かれ、社会全体が自由に利用できるようにしなければなりません。

最高裁判所は、専門家による詳細な技術鑑定の報告書を精査しました。ネスプレッソのカプセルの形状は、単なるデザインの産物ではなく、元々ネスレが1970年代に発明し特許を取得した技術的な解決策そのものを体現するものでした。具体的には、抽出機の中で適切にカプセルが保持され、内部の圧力に耐え、抽出後にスムーズに排出されるための特定の角度や円錐台の形状など、すべてが機械と連動して機能するための技術的な要件でした。そして、その根幹となる技術特許(スイス国内特許)は1996年12月に期間満了を迎えており、欧州特許も2005年1月に消滅していました。

最高裁判所は、競合他社がネスプレッソのマシンで安全かつ確実に機能する代替カプセルを製造しようとした場合、ネスレが商標として主張する元の形状を回避して別の形状を採用しようとすると、製造コストの著しい上昇、カプセル内に充填できるコーヒー粉の量の減少、あるいは機械内部でのカプセル詰まりの発生確率の上昇といった、深刻な技術的および経済的な不利益が生じることを客観的な事実として認定しました。結論として最高裁判所は、当該カプセルの立体形状は特定の技術的結果を達成するために不可欠な「技術的に必要な形状」に該当すると判断し、スイス商標法第2条第1項(b)に基づく絶対的拒絶理由にあたるとして、ネスレが保有していた登録商標の無効と取り消しを宣告しました。

この判決は、特許切れの技術的形状に対して商標権による保護の延長を図ろうとする戦略に対し、司法が明確な歯止めをかけたことを意味します。プリンターのインクカートリッジ、電動歯ブラシの替えブラシ、あるいはコーヒーカプセルのように、本体機器と消耗品が連動して機能するクローズドなエコシステムを構築し、ハードウェアや消耗品の互換性ビジネスを展開する企業にとって、製品の形状がどこまで技術的制約を受け、どこからが商標として保護され得るのかを判断するための極めて重要な法的指針となりました。

参考:BGer(スイス連邦最高裁判所)|判決 4A_61/2021(2021.09.07 ネスプレッソ・カプセル事件)

スイス特許制度の現状と日本の特許制度との根本的な差異

商標制度と同様に、スイスの特許制度も独自の歴史的背景に基づいて運用されており、日本の特許庁の実務に慣れた担当者には誤解を招きやすい特徴があります。スイスにおける特許の保護は「発明特許に関する連邦法」によって規律されています。現行スイス特許法の最大の特徴は、IGEによる特許付与手続きにおいて、「新規性」および「進歩性」の実体審査が一切行われない点にあります。

スイス現行特許法の第1条第3項には、「特許は国家の保証なしに付与される」という、日本の法制ではおよそ考えられない文言が明確に規定されています。現在スイス連邦知的財産研究所で行われている審査は、出願書類が法定の形式を満たしているかという方式要件の具備の確認や、人体の要素に関する発明、あるいは公序良俗に反する発明といった、明らかに特許の対象から除外される不特許事由に該当しないかどうかの表面的な審査に留まっています。つまり、日本の特許庁のように、世界中の膨大な文献や先行技術を特許審査官が徹底的に調査し、その発明が世界で初めてのものであり(新規性)、かつ当業者が容易に発明できたものではない(進歩性)という極めて厳しいハードルをクリアした発明に対してのみ強力な特許権を付与するシステムとは全く異なり、スイスでは書類の形式要件さえ満たせば、技術の独自性にかかわらず特許が付与され、特許登録簿に掲載されます。

では、スイスにおいて特許の有効性がどのように担保されているかといえば、それは特許が付与された後、権利者が他者に対して権利行使を行おうとした際、あるいは第三者が自らの事業の障害となる特許の無効を求めて連邦特許裁判所に訴えを提起した段階で、初めて司法の場において実体的な要件(新規性と進歩性)が厳しく争われることになります。この制度は、スイスの時計産業や精密機械工業の発明家・中小企業が、過度な審査費用なしに特許権を取得できるよう配慮した政策として機能してきました。その一方で、付与された特許の有効性に関する法的予見可能性が低く、無効理由を内包した脆弱な特許(いわゆるジャンク特許)が登録簿上に蓄積されやすいという欠陥も抱えていました。

特許制度の比較項目スイス連邦知的財産研究所における現行制度日本国特許庁における制度
新規性および進歩性の審査審査官による実体審査は一切行われない審査官による厳格な実体審査が行われる
先行技術調査任意であり、出願人が別途費用を払って要求した場合のみ実施全ての出願に対して特許庁が必須のプロセスとして実施
権利付与時の法的確実性極めて低く、特許法上「国家の保証なし」と明記されている高く、実体審査を通過したという強い推定効が働く
権利の有効性が争われる場登録後の民事訴訟(連邦特許裁判所)において初めて争われる審査段階、および登録後の無効審判手続きにおいて争われる

こうした独特な無審査主義の制度は、権利を迅速に確保したい出願人にとっては手続き上の利便性があるものの、客観的な技術評価を欠くため、特許をベースとしたライセンス契約の締結や、特許資産を担保とした資金調達を難しくさせる要因となっていました。さらに、第三者にとっては、競合他社が取得したスイス特許が果たして法的に有効な脅威なのか、それとも単なる無効な権利に過ぎないのかを自らの費用で調査・判断しなければならず、ビジネス上の不確実性と調査コストを不必要に増大させる結果を招いていました。

歴史的なスイス特許法改正と二つの新たな権利化ルートの創設

歴史的なスイス特許法改正と二つの新たな権利化ルートの創設

こうした課題と、2023年に発効した欧州統一特許裁判所協定に代表される国際競争の変化を背景に、スイスの特許制度は抜本的な見直しを迫られました。スイス連邦議会は、国内特許制度の近代化と法的確実性の向上を目的として、特許法の改正案を可決しました。この改正特許法およびそれに付随する完全改訂された特許条例は、2026年5月20日にスイス連邦参事会(連邦政府)によって正式に承認され、2027年1月1日に歴史的な施行を迎えることが確定しています。

2027年施行の改正特許法は、無審査主義というスイスの伝統的な実務を大きく転換するものです。主要な改正点は以下の三点です。

全ての出願に対する先行技術調査の原則義務化と透明性の向上

新制度における最も大きな変更点の一つは、これまで出願人の任意であったIGEによる先行技術調査が、原則として全ての特許出願に対して義務付けられる点です(一定の要件下でIGEが省略できる例外規定もある)。2027年以降、スイスに特許出願を行うと、500スイスフランの新たな調査費用が徴収され、審査官によって出願された発明の技術分野における最新の先行技術に関する詳細な公式報告書が必ず作成されることになります。この調査報告書は、出願公開と同時に公表されます。

この制度変更により、出願人は自らの発明が本当に新規性と進歩性の要件を満たし、保護適格性を有しているかどうかを権利化の早期段階で客観的なデータに基づいて評価できるようになります。調査報告書の内容が否定的であれば、無駄な権利化費用や将来の訴訟リスクを避けるために出願を取り下げるという合理的な経営判断を下すことが可能となります。また、第三者や競合企業にとっても、自社に対する脅威となり得る特許出願がどの程度の有効性を持っているのかを、公開された公式な調査報告書を通じて容易かつ正確に評価できるようになるため、市場全体における特許の透明性と事業の予見可能性が向上します。

フル審査特許と部分審査特許の戦略的選択制の導入

特許の審査ルートについて、新法は画一的な手続きを強制するのではなく、出願人の事業戦略や予算、そして保護を求める技術の重要度に応じて、二つの全く異なる審査ルートを選択できる柔軟なハイブリッドシステムを導入しました。

一つ目のルートは「部分審査特許」です。先行技術調査報告書は取得しますが、それ以上の新規性・進歩性の実体審査は求めません。方式審査のみで迅速に権利化できるため、早期に特許という「看板」を取得して資金調達やマーケティングに活用したい企業には有用です。ただし、特許の有効性が最終的に担保されないリスクは残ります。

二つ目のルートは、今回の法改正の目玉として新たに導入される「フル審査特許」のルートです。出願人の明確な要求と追加費用(フル審査費300スイスフランのほか調査費500 CHF・審査費400 CHFが別途必要)の支払いに基づき、スイス連邦知的財産研究所の審査官が国際標準に厳格に従って、発明の新規性および進歩性を完全に実体審査します。この厳しいフル審査のハードルを通過して付与された特許は、従来のスイス特許より高い法的確実性と強い権利推定効を持ちます。万が一、競合他社との間で特許侵害の民事訴訟に発展した場合でも、フル審査を経ている事実が特許の有効性を裏付ける強力な根拠となるため、権利行使が容易になります。さらに、スイス国内のみで強力な特許権を必要とする企業にとって、欧州特許庁に対して高額な費用を支払ってフル審査の欧州特許を取得し、それをスイスに効力拡張させるという迂回ルートに代わる、非常に経済的で直接的な代替手段となります。また、厳格な審査を経た特許権は、OECDのBEPS Action 5に基づきスイスが実施する「パテントボックス税制(特許権から生じる所得に対する優遇税制)」の適用要件を満たしやすくなるという、財務戦略上の大きな付加価値も生み出します。

パテントボックス税制を含むスイスの税制については以下の記事で詳しく解説しています。

出願言語の柔軟化と英語文書の正式な受け入れ

国際標準への対応として、特許出願の技術文書(明細書・請求の範囲・図面等)は英語で提出できます(改正PatV Art. 3 Abs. 1)。ただし、出願書類本体はスイスの公用語での提出が求められ、手続き言語はドイツ語が原則となります(Art. 3 Abs. 3)。これまでの制度では、特許明細書などの膨大な技術文書をスイスの公用語(ドイツ語、フランス語、またはイタリア語)のいずれかに翻訳して提出する必要がありました。

新制度下では、出願書類の中でスイスの公用語への翻訳が義務付けられるのは、極めて短い「発明の名称」と「要約」のみとなります。技術の核心部分であり、最も文書の分量が多く解釈が複雑な「特許請求の範囲」や「明細書の本文」については、翻訳することなく英語のまま提出し、英語で公開されることが認められます。これにより、日本企業が米国や国際出願向けに英語で作成した特許ドキュメントをそのままスイス出願に流用することが可能となり、これまで障壁となっていた翻訳コストを大幅に削減できます。また、翻訳過程での技術用語のニュアンスの損失や、翻訳エラーによる保護範囲の意図せぬ縮小というリスクも回避できます。

参考:admin.ch(スイス連邦政府公式ウェブサイト)|特許法改正に関するプレスリリース

まとめ

本記事で見てきたように、EU非加盟国であるスイスでの知的財産権保護は、欧州連合商標などの汎欧州的な枠組みに依存できないため、IGEへの直接出願やマドリッド協定議定書による個別指定など、スイス法域に特化した対応が不可欠です。商標制度においては、日本の特許庁と異なり相対的拒絶理由が職権で審査されないため、自社の貴重なブランド資産を保護するためには、出願公開からわずか3ヶ月という限られた法定期間内に、先行権利者自らが法的根拠を揃えて異議申立てを行うという、能動的な監視体制の構築が事業防衛の要となります。リンツおよびネスプレッソの判例が示すように、立体商標の識別力取得に関する積極的な認定や、技術的必然性を理由とした商標保護の厳格な除外といった判例法理が、スイス市場の競争環境を実質的に規律しています。

一方、特許制度においては、長らく実体審査を行わないスイス特有の運用がなされてきましたが、2027年1月施行の特許法改正により、先行技術調査の原則義務化とフル審査ルートの導入が実現します。英語での技術文書の提出が容認されることで出願のハードルと翻訳コストが大幅に下がる一方、フル審査を選択することで高い法的確実性を持つ権利取得が可能なため、スイス市場における技術保護の選択肢は格段に広がり、より高度な知財マネジメントが求められることになります。こうした日本との制度的な違いと進行中の法改正の動向を把握し、スイス特有の法的要件に自社の知財戦略を適応させることは、欧州展開を成功させる上での重要な前提条件です。

こうした極めて高度な法的専門性と、現地の最新の実務動向に関する深い理解が求められる複雑な課題に対し、モノリス法律事務所は、スイスにおける強力な戦略的パートナーである現地の法律事務所Araucariaとの緊密な提携関係を通じて、日本から欧州への事業展開を言語の壁を感じさせることなくシームレスに支援する万全の体制を整えています。モノリス法律事務所が有するIT関連や先端技術ビジネスに関する日本の法務知見と、Araucariaが提供するスイス現地の最新法令の解釈、複雑な出願手続きの代行、および予測不能な紛争解決における実践的な専門能力を高度に融合させることで、国境や法体系の違いを越えた包括的かつ最高水準のリーガルサポートを提供することが可能です。スイス特有の相対的拒絶理由の審査欠如に対する確実なウォッチング体制の構築から、2027年の特許法改正(PatG部分改正・PatV全面改訂)を見据えた権利化ルートの戦略的選択、さらには現地の競合他社との間で発生し得る高度な知財紛争への対応に至るまで、スイス市場における貴社の知的財産権を確実かつ戦略的に保護し、事業の持続的な成長を支えるための最適なソリューションをご提案いたします。

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