スイスでのM&A実務と法的デューデリジェンスの留意点
スイスをはじめとする欧州圏でビジネスを展開する、あるいは今後の事業展開を検討するにあたり、スイス企業を対象としたM&Aや合弁会社の設立は、市場へのアクセスを高める有効な戦略となります。スイスは高度な技術力と安定した経済基盤を有する一方で、その法体系は周辺の欧州諸国や日本とは異なる独自の厳格さを備えています。スイスでの企業買収を成功に導くためには、現地の法制度の理解と、事前の法的デューデリジェンスが不可欠です。
本記事では、スイスのM&A実務において日本企業が陥りやすい法的リスクに焦点を当て、解説します。具体的には、株式売買契約における表明保証違反に関する最新の司法判断や、企業買収に伴うスイス債務法に基づく厳格な労働者の承継義務、そしてスイス競争法における企業結合の届出要件と新たな審査基準を取り上げます。日本法と共通する部分がある一方で、スイス特有の法理や厳格な手続要件が存在するため、これらを正確に把握したうえで適切なリスクヘッジを行う必要があります。
株式売買契約における表明保証とスイス債務法の適用
スイス債務法に基づく瑕疵担保責任の原則と日本法との比較
スイスにおけるM&A取引、とりわけ株式譲渡を用いた企業買収の契約は、原則としてスイス債務法によって規律されます。日本のM&A実務では、株式売買契約において対象企業に関する詳細な表明保証条項を設け、民法や商法の一般原則を補完、あるいは排除し、買主を保護する手法が一般的に用いられます。スイスにおいても当事者間で独自の表明保証条項を設定することは可能ですが、特段の合意や責任制限に関する明確な排除条項がない限り、スイス債務法第197条以下に規定される売買契約の瑕疵担保責任が類推適用されます。
スイス法の基本原則として、売主には買主の利益を積極的に保護して対象企業のすべての潜在的リスクを開示する一般的な法的義務は存在しません。買主は自らの責任において、法務・財務・税務に関する包括的なデューデリジェンスを実施し、対象企業のリスクを洗い出す義務を負います。
| 項目 | 日本の法律およびM&A実務の傾向 | スイスの法律およびM&A実務の傾向 |
| 瑕疵担保責任の適用 | 民法上の契約不適合責任を排除し、契約書上の独自の表明保証条項のみを責任根拠とするのが一般的 | スイス債務法第197条に基づく法定の瑕疵担保責任が適用される。買主が通常の注意を払えば発見できた瑕疵については売主が免責される |
| デューデリジェンスの法的位置づけ | 買主のリスク把握手段。買主に軽過失があっても表明保証違反を追及できる契約設計が多い | 買主が通常の注意で発見できた瑕疵については、売主が意図的に隠蔽しない限り免責される |
| 損害賠償額の算定 | 契約書で合意した補償上限額や算定方式に従う | 相対的計算方式に基づく客観的な価値の減少分が基準となる。企業価値評価手法の法的な立証が求められる |
デューデリジェンスの過程で買主が合理的な注意を払えば発見できたはずの瑕疵については、売主が意図的に隠蔽した事実がない限り、買主は法的保護を受けることができません。日本の法律の下でも買主の過失が問われる場面はありますが、スイス法における契約締結上の過失の法理は一般に厳格に解釈されており、対象企業の重大な瑕疵を見落とした買主が契約外の損害賠償請求を行うことは困難です。
したがってスイスでの企業買収においては、日本国内の取引以上に包括的なデューデリジェンスが要求されます。対象企業の商業登記情報の確認に加えて、スイス特有の厳格なデータ保護法制への対応状況や知的財産権の帰属、そして各種許認可の有効性などを詳細に精査する必要があります。
参考:fedlex(スイス連邦政府法令データベース)|SR 220 債務法
チューリッヒ商事裁判所判決に見る損害賠償と出資返還禁止の罠
スイスにおける投資契約やM&Aにおいて、表明保証違反が事後的に発覚した場合の法的救済の限界を示す重要な判例が存在します。2024年8月21日にチューリッヒ商事裁判所が下した判決では、原告であるジャージー島に拠点を置く投資会社と、被告であるスイスの食品産業の株式会社との間で、企業買収に伴う法的責任が激しく争われました。この事案では、被告企業の2020年および2021年の財務諸表が改ざんされており、2022年の収益も虚偽であったことが資本増資完了後に発覚しました。原告はスイス債務法第28条に基づく詐欺を理由に、投資契約の取り消しと不当利得返還を求めました。しかし裁判所は、スイスの会社法理に基づき、資本増加が商業登記簿に登録された後は、株式の引受人が同意の瑕疵を理由に契約自体を取り消すことはできないと判示しました。
その一方で裁判所は、スイス債務法第97条に基づく表明保証違反としての損害賠償請求を認め、およそ1497万ユーロの支払いを被告に命じました。ここで日本企業が留意すべきポイントは、スイス債務法第680条第2項が定める出資返還の禁止原則です。損害賠償が裁判で認められたとしても、その支払原資は対象企業の自由に処分可能な準備金に厳格に制限され、名目資本や法的に保護された準備金を取り崩して賠償に充てることは違法となります。また、本件の投資契約には表明保証違反の救済を補償的資本増資に限定する責任制限条項が含まれていましたが、被告の意図的な詐欺行為があったため、スイス債務法第100条第1項に基づき、この責任制限は無効とされました。
このようにスイスでのM&Aでは、一度株式の取得が登記されると取引自体の巻き戻しが事実上不可能となり、相手方の財務状況によって損害賠償額も法的に制限されるため、事前のデューデリジェンスの精度が取引の成否を左右します。
参考:MME(MME Legal Tax Compliance)|判例解説 チューリッヒ商事裁判所 2024年8月21日判決(HG240031-O5)
Handelsgericht Zürich(チューリッヒ州商事裁判所)|判決 HG240031-O5(2024年8月21日判決)
企業買収に伴う労働者の承継とスイス法における保護義務

スイス債務法第333条に基づく労働契約の自動承継と連帯責任
事業譲渡やアウトソーシングスキームを通じてスイス企業の事業部門を買収する場合、労働者の取り扱いにおいて日本法との決定的な違いに直面します。日本の事業譲渡においては、対象となる労働者の個別の同意を得なければ、労働契約を新会社に承継させることはできません。しかしスイスにおいては、スイス独自の強力な労働者保護制度が法定されており、スイス債務法第333条の適用を受けます。同条により、事業または事業の一部が譲渡され、対象事業の目的や組織構造といった本質的な同一性が維持される場合、譲渡対象事業に従事する労働者の雇用契約は自動的に買主である新雇用主に承継されます。
労働者が明示的に移籍を拒否しない限り、従来の雇用条件のまま、有給休暇の残日数や勤続年数に基づく権利も含めて、新会社に完全に引き継がれる仕組みとなっています。さらに重要な点として、売主と買主は、事業移転前を支払期日とする未払い賃金・残業代などの労働債権について連帯責任を負います。また、移転後も雇用関係が通常の方法で終了するまでの間に支払期日が到来する請求権についても同様に連帯責任を負います(OR第333条第3項)。日本企業がスイスで事業譲渡スキームを用いたM&Aを行う場合、対象企業が抱える潜在的な未払い残業代やスイス特有の企業年金制度の積立不足といった簿外債務を自動的に引き継ぐ法的リスクがあることを認識しなければなりません。
特定の労働者の雇用契約だけを承継の対象から除外するような合意を当事者間で結んだとしても、同条の強行法規性によりそのような契約条項は無効と判断されます。
スイス連邦最高裁判所判例に見る経済的理由による解雇の正当性
労働契約の自動承継を回避する目的で事業譲渡の直前に労働者を解雇し、譲渡後に買主が自社に有利な条件で再雇用するような行為は、スイス債務法第333条の労働者保護規定を潜脱する違法行為とみなされます。この場合、濫用的解雇として最大で月給の6か月分に相当する損害賠償の対象となります(OR第336条a第2項)。ただし、事業譲渡のタイミングであっても、正当な経済的理由に基づく解雇は法的に許容されており、この境界線が実務上しばしば争点となります。スイス連邦最高裁判所判決(4A_506/2023、2025年2月19日)は、この境界線が問われた適用例の一つです。
この裁判では、原告であるシニアマネージャーと、被告である制裁対象となったベネズエラの石油事業部門を有する商社との間で、事業承継に伴う解雇の適法性が争われました。2020年2月にアメリカ政府の経済制裁措置によって、被告企業のベネズエラ向け石油事業の資金調達が完全に絶たれ、事業の70%が消滅するという事態に陥りました。被告企業は存続可能な一部の事業と少数の従業員のみを新会社に承継させ、原告を含む多くの従業員を解雇しました。スイス連邦最高裁判所は、アメリカの制裁によって事業の大部分が消滅し、新会社が限定的な事業と人員しか引き継げなかったという事実関係を重視し、本件の解雇は法の潜脱を目的としたものではなく、純粋に経済的かつ客観的な理由によって正当化され、スイス債務法第333条には違反しないと判示しました。
この判決は、スイス債務法第333条が適用される状況下であっても、事業環境の激変など真に経済的な必要性に基づく解雇は、保護の対象外となることを示しています。日本企業がスイスの対象企業を買収した後にリストラを行う場合、その解雇が承継手続きそのものを理由とするものではなく、明確な経済的合理性に基づく経営判断であることを、客観的な証拠とともに文書化しておくことが重要です。
参考:BGer(スイス連邦最高裁判所)|判例 4A_506/2023(2025年2月19日判決)
MLL Legal(MLL法律事務所)|スイス労働雇用紛争年次総覧
スイス競争法に基づく企業結合統制と新たな審査基準への対応
連邦カルテル法における厳格な届出要件と高額な制裁金リスク
スイス企業を対象とする大規模なM&Aを実施する際、スイスの競争法である連邦カルテル法(KG)に基づく企業結合統制の枠組みを厳格に遵守する必要があります。連邦カルテル法第9条の規定によれば、特定の売上高基準を満たす企業買収は、取引を実行する前にスイス競争委員会に対する事前の届出が義務付けられます。
| 企業結合の事前届出が必要となる要件(連邦カルテル法第9条) |
| 以下の2つの条件を同時に満たす場合 |
| 買収に関与する企業の直前会計年度における全世界の合計売上高が20億スイスフラン以上、またはスイス国内の合計売上高が5億スイスフラン以上であること |
| かつ、少なくとも2社のスイス国内における売上高がそれぞれ1億スイスフラン以上であること |
| ※例外:過去に特定の市場で支配的地位にあると認定された企業が関与する場合は、売上高に関わらず届出が必要 |
これらの売上高の閾値は他の欧州諸国より高く設定されていますが、例外的な規定が存在します。過去にスイスの特定の市場で支配的地位にあると競争委員会から認定された企業が関与する場合、売上高の規模に関わらず、その市場または関連市場におけるあらゆる企業結合について事前の届出が要求されます。事前届出義務に違反してM&Aを実行した場合、最大100万スイスフランの罰金が科される可能性があり、要件を満たさないまま手続きを進めた企業の経営陣個人に対しても、連邦カルテル法第55条に基づき最大2万スイスフランの罰金が適用されるリスクがあります。
参考:fedlex(スイス連邦政府法令データベース)|SR 251 カルテル法
法改正によるSIECテストの導入と国境を越えた取引への影響
スイスの企業結合統制は現在、大きな転換期を迎えています。2025年12月に連邦議会が可決したカルテル法改正の最大の目玉は、「競争を著しく阻害する企業結合(Significant Impediment to Effective Competition)」に対して当局が介入できるSIECテストを、企業結合の新たな審査基準として導入したことです(施行日は連邦参事会が別途定めるため現時点では未確定)。従来、スイス競争委員会は適格市場支配力テストを採用しており、合併によって実効的な競争を排除しうる市場支配的地位が形成または強化される場合にのみ取引への介入が可能でした。
しかし新たなSIECテストの導入により、市場支配的地位に至らない場合であっても、寡占市場における単独の価格引き上げなど、実効的な競争を著しく阻害する可能性のある企業結合に対して、競争当局が積極的に介入し、買収の禁止や条件の付加を行うことが可能になる見込みです。このため日本企業は、自社の買収がスイス市場における価格競争やイノベーションにどのような影響を与えるかを経済学的な視点から分析し、当局に対して説明できる体制を整えておく必要があります。一方で新たな審査基準の下では、消費者にもたらされる客観的で検証可能な効率性向上のメリットが、競争阻害のデメリットを上回ることを企業側が明確に立証できれば、買収が承認される余地も広がります。
さらに今回の法改正では、スイスと欧州経済領域の両方を含む地理的市場において、欧州委員会による審査を受ける国境を越えた企業結合について、スイス国内での届出義務を免除する特例も新たに設けられました。欧州市場全体を対象とするM&Aを計画する日本企業にとっては、この免除規定によって事務手続きの負担が軽減される可能性がありますが、免除の適用範囲の解釈には不確実性が伴うため、スイス市場固有の影響が生じる場合には、依然として審査に備えた準備が必要です。
参考:SECO(スイス連邦国家経済庁)|カルテル法改正(SIECテスト導入)
まとめ
スイスは高度な技術力や安定した金融基盤を持つ有力企業が数多く存在し、欧州展開の足掛かりとして魅力的な市場です。しかしスイスのM&A実務には日本の法制度とは根本的に異なる特有の法的リスクが複数潜んでいます。株式売買契約においては、瑕疵担保責任に関するスイス債務法の基本原則を正確に理解し、商業登記完了後における取引自体の取り消しが困難である事実を前提として、対象企業の財務状態や潜在的リスクを緻密に洗い出すデューデリジェンスが要求されます。
また、事業譲渡の手法を採用する場合における労働契約の自動承継と当事者間の連帯責任のルールは、買主にとって予期せぬ残業代や年金不足額などの簿外債務を引き受ける重大なリスクとなり得ます。さらに、2025年12月に連邦議会が可決した改正カルテル法(施行日は連邦参事会が別途定めるため現時点では未確定)に基づくSIECテストの導入により、競争当局の企業結合に対する監視の目は一層厳格になり、市場シェアに関わらず競争阻害性が厳しく審査されることになる見込みです。スイス国内の特殊な法理や法改正の動向を正確に把握せずに、日本国内の企業買収と同じ感覚で案件を進めることは、企業に重大な損害をもたらしかねません。
こうした複雑かつ専門的なスイス固有の法的課題に対応するため、モノリス法律事務所はスイスの現地法律事務所であるAraucariaと提携し、現地の最新法令や実務慣行に基づいたリーガルサポートを提供できる体制を整えています。対象企業の法的デューデリジェンスの確実な実施から、スイス債務法に準拠した株式売買契約書の作成および交渉、そしてスイス競争法に基づく届出要件の精査や労働問題の解決に至るまで、現地の専門家と緊密に連携して包括的に対応します。現地の商慣習や規制当局の動向を熟知したプロフェッショナルによる助言を通じて、日本企業が法的リスクを回避しながら欧州圏でのビジネスを展開できるよう支援いたします。
河瀬 季
Toki Kawase
IT企業経営の経験を持つエンジニア出身の弁護士。東大院修了後、モノリス法律事務所を開設。上場企業からスタートアップまで顧問弁護士やCLOとして経営を支援する。特にスイス法務に精通し、専門チームを率いて現地法人設立から労務、知財戦略分野で日本企業のスイス進出を多角的にサポートしている。
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